随筆 新・人間革命 223 法悟空
「戦う愛知の誉れ」

 中部は断固として勝った。
 愛知は悠然として勝利をした。
 長い長い間、卑劣な権力者たちに恫喝され、あらゆる陰謀のなか、策略に陥れられながら、厳然と正義のために戦い抜いて、中部は勝った。断じて勝った。
 御聖訓には、「過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、賤しめる国主や臣下、また万民は、たとえ始めは何事もないようであっても、最後に滅びないものはない」(御書一一九〇n、通解)と仰せである。
 その通りの倣慢極まりない権力者たちは、この御書に寸分違わぬ末路となった。
 それは、蓮祖の仏法の厳しくも明確なる指標が、全部、正しいという証明だ。
     ◇
 ゲーテは、社会の混乱の要因は、権力者の邪悪にあると喝破し、そして言った。
 「どんな不正に対しても、私はもう黙ってはおられません」(山下肇訳)
 わが中部の正義の友もまた、断じて沈黙しなかった。雄々しき師子となりて、叫び、吼えた。
 「正しい時に遭い穏かにしているのは美しいが、正しからざる時に遭い安閑としているのは醜いものだ。臆病であるからだ」 (渡辺格司訳)とは、ドイツの大詩人ヘルダーリンの言葉である。
 つまり、愛知の同志は、臆病ではなかったのだ。勇敢であったのだ。
 ゆえに、勝ったのだ。
     ◇
 それは、一九七六年(昭和五十一年)、ちょうど二十五年前の七月二十七日(火曜日)のことであった。
 名古屋文化会館の大広間で、中部の記念幹部会が行われた。
 愛知と三重と岐阜の団結を象徴する「中部旗」が授与され、「中部の日」の淵源となった歴史的な会合である。
 私の決意は深かった。
 今日の出会いを、中部の苦しき宿命を転換する原点にしたい″
 そして、ここ中部で、ここ愛知で、「熱原の三烈士」の歌を発表したい、と念願していたのである。
 それは、なぜか。
 「三烈士」の詩は、この五年前、言論問題″を発端とする学会攻撃のなかで発表した、五十五連の長編詩であった。
 私は、中部をはじめ、大切な同志への思いを、七百年前に殉教した「熱原の三烈士」に託して、広宣流布に戦闘する誉れを詠った。
 その長編詩から六連を選んで、当時、創価学園の教員の杉野泰彦さんに曲をつけていただいたのである。

  富士の裾野の朝ぽらけ
  若葉の露は彩なして……
  その名 熱原神四郎
  弟弥五郎 弥六郎
  求道めし日々は浅けれど
  清き血潮の布教進む
  栄えの生命の法讃歌

 この歌を、悪戦苦闘しながら遂に勝ち抜いてきた中部で、真っ先に発表したい。これが、私の真情であった。
 中部男子部の「堅塁合唱団」、女子部の「ゴンドラ合唱団」、そして婦人部の「名古屋虹コーラス」の代表による熱唱が、名古屋文化会館のロビーに響き渡った。

 誉れの優勢 口惜しさに
 膏油煮え立ち喘ぎ立ち
 障魔の権力は卑劣にも
 和合の綱に手を伸ばし
 撹き乱さんと仇心……

 生死流転の神四郎
 桜の花に吹く風に
 あれよ広布の鑑よと
 その名かんばし熱原の
 烈士の命 誉れあり

 その歌声は、わが心の琴線をかき鳴らした。
 私は、歌を聴きながら、中部、そして愛知の広宣流布の誉れ高き友の、あの顔、この顔を思い浮かべた。
     ◇
 昭和四十五年の言論問題″の前後より、学会は、数人の代議士からも罵倒され、ある時は、テレビを使い、雑誌を使い、演説会を使い、非難中傷された。あらゆる会合で、火をつけるように、悪口罵詈を煽り立てられた。
 なんという悪逆か! なんという狂気じみた悪口か!
 私自身も、愛知県の代議士から、国会喚問の要求を初めてされた。
 「信教の自由」を侵害する狂暴な嵐であった。理不尽な罵倒の連続であった。
 ともあれ、中部の同志は、血の涙を拭いながら、断固として仏敵と戦う決意を、炎と燃やした。卑劣な強敵と、真っ向から勇敢に戦った。
 全会員が、極悪の非難に対して、怒鳴り返し、堂々と反転攻撃の闘争を、連日、続け始めた。
 人びとの幸福と平和を願い、基本的人権をもつ市民として、正義の信仰を流布して、何が悪いのか!
 信教の自由ではないか!
 社会の改革に奔走して、いったい、何が悪いのか!
 憲法に保障された、最も正しい人権闘争ではないか!
 勇気凛々たる中部の同志のスクラムは、敢然として、真っ向から、敵に火を吐く思いで戦い抜いた。
 何人かの臆病者は、逃げた。敵についた者もいる。
 しかし、今の大野和郎副会長を中心に、すべての真の同志は、未曾有の弾圧の嵐を堪え忍んで、遂に赫々たる太陽の昇るが如き、勝利の中部の堅塁を護り、盤石にしていった。一部の評論家や著名人、そしてまた何人かの代議士たちは、これだけの大攻撃を受けた愛知の学会は、必ず崩壊するであろうと囁いていた。
 しかし、中部の創価学会の勇敢なる信心は、凄まじき苦境を乗り越え、すべてに大勝利したのだ。それは、永遠に燦と輝きわたる歴史として残るにちがいない。
 愛知の広布の友は、大聖人の御聖前通りに戦い抜いたのだ。
 開目抄には「末法の法華経の行者に対しては、山に山を重ね、波に波をたたむように、難に難を加え、非道に非道を増すであろう」(同二〇二n、趣意)とある。
 その仰せのままに、弾圧を受け、大難を受け、名誉ある法難を永遠の功徳に変えゆく実践をされたのである。

 中部は、よく耐えた。
 中部は、よく勝った。
 日本中の同志が、今でも誉め讃えている。
     ◇
 中部の愛唱歌である「この道の歌」(山本伸一作詞)が発表されたのも、「熟原の三烈士」の歌の発表から二年後(一九七八年)の同じ七月二十七日であった。
 「この道」とは、信念の道であり、そしてまた正義の道、幸福の道、同志と歩む勝利の道である。
 それは、我ら「創価の烈士」が進みゆく大道なのだ。
 当初の発表では、歌詞の結びは、「ああ中部中部 諸天舞う」となっていた。
 だが、皆の合唱を聴きながら、最後の歌詞がちょっと違うな、と思った。
 諸天が「舞う」だけでは、主体である我々にとっては、受動的になってしまうからだ。
 大事なのは、諸天をも「舞わせる」、つまり「動かしていく」、我々自身の強き祈りと行動にしていくべきであると思った。
 そこで、後になって申し訳なかったが、「諸天舞え」と直したのである。
 仏法の勝負は厳しい。
 中途半端な、ひ弱な精神では、断じて勝てない。
 民衆の悲嘆の流転を変え、堂々たる民衆勝利の大喝采を叫ぶことはできない。
 ゆえに、徹して、断じて強くあれ! ひとたび戦いを起こしたなら、必ず勝て!
 必死の一人は、万軍に勝るのだ!
 蓮祖は仰せである。「頭をふればかみ(髪)ゆるぐ心はたらけば身うごく、(中略)教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(同一一八七n)
 これは、中部の友と一緒に拝した、思い出深い御文でもある。
 強い祈りが、教主釈尊を動かし、諸天善神を存分に働かせていくのである。
 猛然と祈り動けば、必ず、多くの人びとが諸天善神となって味方と変わる。
 これが、大仏法の原則だ。
     ◇
 青年部の勇敢なる「若党」の雄叫びと正義の戦いは、大中部を更に盤石なものとしていくにちがいない。
 大中部の友よ!
 堅固なスクラムで、中部と一体で進みゆく北陸の友よ!
 敬愛する愛知の友よ!
 新しき、また新しき正義の戦いに勝利し、壮大なる広宣流布の大城を、護り築いていただきたい。
 偉大なる愛知よ!
 新世紀の「創価の烈士」よ!
 遂に来た決戦の時、未来永劫に、その名を輝かせゆくのだ。
 そして、二十一世紀の緒戦を、勝利の創価の城で飾っていただきたい。

<2001/7/10 掲載>
著作権は聖教新聞社にあります。



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